機械化歩兵開発史

開発前史

第一次大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ体制下の戦後賠償に苦しんでいた。

フランスをはじめとする戦勝国は普仏戦争から続くドイツの領土獲得欲をくじくため、過酷な経済制裁と再軍備の制限を課していた。これにより産業の基盤である鉱工業を破壊されたドイツは、たちまち1000%を超えるハイパーインフレへと陥ってしまう。

そんな中、打倒ヴェルサイユ体制を標榜して政治の表舞台に登場したヒトラーに、人々は危険な匂いを感じつつも、次第に魅了されて行くことになる。首相として政権を掌握したヒトラーは、欧州各国に対してヴェルサイユ条約の破棄と再軍備の開始を宣言する。ヴェルサイユ体制打破の為、最低でもフランスとの戦争は避けられないと考えたヒトラーは、数的に勝るフランス軍と戦ってこれに勝利するためには、これまでとは違った新しい戦略が必要になると考えていた。

そんな中、陸軍のマインシュタイン中将によって提案された「電撃戦」と言う概念はヒトラーの思惑に上手く合致するものであった。電撃戦とは即ち、航空機による支援を受けた機甲部隊が一気に敵の深部まで侵攻してその背後を突く作戦のことである。
局地戦の一戦術に過ぎない作戦を国家間の戦略にまで発展させるためには以下に挙げる2つの要素が絶対に必要であると考えられた。
第一にそれは、圧倒的な空軍力である。継続的な航空支援を行うには、数的、性能的に勝る航空戦力によって制空権を維持しなければならないのだ。
次に必要とされたのは強力な戦車部隊であった。要塞や塹壕を超えて敵縦深へと進撃するには、歩兵にはない攻撃力と機動力が必要であった。開戦前、戦車にその役割を奪われた歩兵部隊は急速にその数を減らすものと考えられていた。

しかしながら、いざ戦争が始まってみると、現実はむしろその逆であった。実際の戦場においては、歩兵部隊の支援なしでは戦車が行動することすらままならなかったのだ。事ここに至って、ドイツ陸軍は改めて歩兵戦力の強化を迫られることになる。

前述のように、戦車が登場した後の戦場においても、歩兵部隊は戦闘の主役であり続けた。
如何に電撃戦を押し進めても、所詮それは点と線の戦線を構築するに過ぎない。地域全体の制圧の為には、どうしても歩兵の持つ浸透力と柔軟性が必要であったのだ。

しかしながら、機関砲などの近代兵器が登場する中にあって、小銃と手榴弾しか持たない歩兵の攻撃力は著しく見劣りしするものとなっていた。また装甲化された戦闘車両と比べた場合、その耐抗(対弾)能力は極めて脆弱なものであった。歩兵は「あまりに脆くか弱い存在」であったのだ。

歩兵部隊の能力向上については、ドイツ陸軍内部でも様々な意見が交わされていた。装備を刷新することで攻撃力の向上させるのか、それとも防弾板のようなものでその防御力を高めるべきか。ドイツ陸軍省は前線から届く様々な要望に応えようと、国内の軍需メーカーに多数の試作案を提示させていた。

1937年1月、ドイツ陸軍省に一通の航空郵便が届く。見慣れない形のその封書には一通の手紙と、人型をした機械の青図が入っていた。差出人は「大日本帝国支奈方面軍大佐 明石平八郎」となっていた。
しかしながら、大陸を隔てた同盟国から届いたその手紙がドイツ陸軍内で大きく取り上げられることは無かった。添付の青図は大変興味深いものであったが、肝心の手紙に書かれた内容が余りに荒唐無稽なものだったのだ。
この封書は担当官のデスクにしまいこまれたまま、二度と陽の目を見ることはないものと思われた。

事態が動いたのはそれから2カ月程経った春であった。新型戦闘機のライセンス契約を結ぶため、帝国陸軍の担当者とドイツを訪れていた日本の商社マンが、ドイツ陸軍省でその手紙を見せられたのだ。
青図に描かれた人型機械に思い当たる節のあった彼は、その封書を譲り受けると、その足でハインケル社の社主であるハインケル教授の下に持ち込んだ。ヒトラーとの政治的確執により(ハインケル教授がナチの政策に否定的であったとも言われている)、次期主力戦闘機の採用を逃していたハインケル社は日本からの資金援助を得て、この人型機械をドイツ国内で製造することを約束する。
それは先に述べた理由から、決してドイツ陸軍には採用されることは無いと踏んだ上での契約でもあった。後に「Riesen-Panzer I」(I号人型重機)と名付けられたこのマシンはドイツ陸軍が望む歩兵戦力の強化には打って付けの兵器であった。しかしながら日本側の予想した通り、これがドイツ陸軍において正式採用されることは、終戦のその日まで遂に無かった。

日本からもたらされた青図には動力源、即ち発電装置に関する情報が丸ごと欠落していた。関節の駆動は既存のモーターで代用できたが、それらに電力を供給するシステムがどこにも組み込まれていないのだ。
ハインケル社の問い合わせに対し日本から送られてきたのは、バラ積み船一隻分の特殊な鉄鉱石であった。青森にある石神製鉄(株)から派遣された技師の下、ドイツ最大の鉄鋼メーカー、クルップ社の協力によって精錬されたその金属は驚異的な強度と軽さを備えていた。
フレーム骨格にこの金属を使用した試作T号機は、パイロットが乗り込むと、動力を持っていないにもかかわらず、自動的に起動し自立した。全高5m。頭こそ無かったものの、一対の手足を備えたその姿は「機械化歩兵」と呼ぶに相応しいものであった。

Riesen-Panzer II,III

1940年に入ると、ハインケル社は本来の航空機製造に専念するため(一説にはハインケル社が前年に初飛行させたジェット戦闘機の実用化に専念するためであったとも言われている)、「I号」の量産とそれに続く改良は関連会社であるロージック社に引き継がれた。
元々陸戦兵器を製造していたロージック社において、このマシンは劇的な変貌を遂げてゆく。「I号」の設計が日本製であったためか、その形態はドイツ人の思い描く人型マシンとは大きく異ななるものであった。そこで開発を引き継いだロージック社では、その形態をより人間に近づけることを第一として「II号」の改設計を進めていった。

これはパイロットの思い描くイメージをより忠実にトレースするための改良であるとも言えた。電力の供給システムは依然として不明であったが、非常用としてガソリンエンジンと小型の発電機が搭載された。胴体の形状も大幅に見直され、被弾傾始を考慮した円筒形に近い形状に改められた。また頭部が追加された事で、そのシルエットもより人間に近いものになっていた。

8月から製造された「III号」には携行式の専用火器が用意された。ラインメタル社製20o機関砲を改造して作られたそれは、装甲車両に対してはやや威力不足と判定されたが、将来的にはより大口径の戦車砲を持たせることも決定された。武装の拡張性が高い点も従来の戦車等にはない、人型重機の特徴と言えた。
「III号」の初期ロット分のうち12台に関しては伊号潜水艦によって日本への「輸出」もされている。これはアメリカとの戦争を控えた日本海軍の要請を受けたもので、主に敵前上陸の際に使用することを想定していたようであった。そのため操縦席周りは密閉性の高い仕様に改造されており、海水が浸入しないようシーリングが施されていた。実際に使用されたと言う記録は確認されていないが、一部では終戦間際に完成した新造戦艦に搭載されたとの情報も伝えられている。

Riesen-Panzer IV

1941年12月、独ソ戦開始以来快進撃を続けていたドイツ中央軍集団は、頑強なソ連軍の抵抗と猛烈な冬将軍の前に、モスクワまであと8qを残した地点で、遂に撤退を決定する。これはヒトラーが目指した「電撃戦による戦争の勝利」と言う構想そのものが潰えた瞬間でもあった。

その前月、ドイツ、ルール地方のロージック社において人型重機の完成形とも言える「IV号」の初期生産分がロールアウトしていた。前述したように、歩兵の強化を伴わない電撃戦は当初から致命的な欠陥を抱えていた。もし仮にヒトラーがハインケル社との確執を超えてこの人型重機を採用していれば、独ソ戦はその最初の一年で全く違った結果に終わっていたのかもしれなかった。

「IV号」では「II号」から搭載されるようになったエンジンと発電機をより大型の物に換装していた。電力の供給システムは依然として不明であったが、発電量を増やすことで駆動力全般の底上げを図ろうとしたのだ。
その結果、胴体下部の直径が拡大され、全体のシルエットもやや人型から離れたものになってしまった。頭部には最新のステレオ式スコープが搭載された。これは砲兵用の複式測距儀を応用したもので、パイロットはより立体的に外部を視認出来るようになっていた。二つのレンズが「眼」のように配置されたことで、頭部の形状は少しだけ人間のそれに近いものに変わっていた。
発電量の拡大に伴って、最大稼働時間も1時間にまで延長されている。たったの1時間と思われるかもしれないが、V号までの稼働時間が30分足らずであった事を考えると、これは長足の進歩であると言えた。初期ロット分36台の内、12台に関しては完成後すぐに輸送用のUボートに積み込まれている。

後年発見されたローージック社の記録によると、「IV号」とそれに続く「V号」の製造は1945年4月まで継続されており、その間実に約5,000台もの「重機」が出荷されたことになっている。繰り返しになるが、この兵器がドイツ軍に採用される事は、終戦まで決してなかった。となれば完成したこれらの機体は全て輸出に回されていたことになる。
では一体どこに向けて輸出されていたのか。第二次大戦を通じてこの種の兵器が戦場に現われたと言う記録は1つとして確認されていない。(唯一、フランスの植民地であったダカールにおいて、これに似た機械を目撃した現地人の証言が残されている。)いずれにせよ、これらの兵器が連合軍を相手に戦闘を行った事は一度として無いと言うのがその真相のようである。

戦闘記録

第二次大戦の終焉とそれに伴う混乱の中、製造元のロージック社が解散したこともあって、一連の人型重機に関する記録は一時完全に失われていた。歴史の闇に埋もれていたこのマシンが再び表舞台にその姿を現したのは、90年後に発生したある事件を契機としてであった。

2031年、人類初の火星有人着陸を成し遂げた探査隊が、マリネリス渓谷の底で複数の人型機械を発見した。それらは当初、「火星人の死骸発見」と報じられ世界中の話題をさらうこととなる。
しかしながら、持ち帰ったサンプルを分析した結果、これらの「遺物」が、かつて地球から持ち込まれた機械部品の一部である事が判明したのだ。そこにはあのロージック社のロゴマークも刻印されていた。

事態を重く見たNASAは真実を公表しないまま、追加の調査隊を派遣する。8年後、この調査隊が新たに持ち帰ったサンプルの中には大量の16oフィルムが含まれていた。奇跡的に経年変化を免れたそれらのフィルムにはこれまでの歴史を大きく覆す驚愕の映像が残されていた。
現像されたフィルムには火星に降り立つ人型重機とドイツ軍の戦車部隊が映し出されていた。フィルムを納めたケースには1942年10月の日付が記されている。これが手の込んだ悪戯でなければ、(俄かには信じられない事なのだが)、ドイツ軍はスターリングラード攻防戦の最中、火星への侵攻作戦も同時に行っていた事になる。
アメリカをはじめとする連合国やロシア(当時はソビエト連邦)にもドイツ軍と火星で戦闘を行った記録は一切残されていない。ではドイツ軍は一体誰と戦っていたのか。

それに対する答えは続いて上映されたフィルムの中に収められていた。そこにはドイツ軍戦車を粉砕する火星人の群れが映し出されていたのだ。金色に輝くその姿は、金属の鎧を着込んでいるかのようでもあった。
しかしながら、鹵獲され、解体されたその生物は人の形をしてはいたが、人間とは似ても似つかない異様な姿をしていた。
地球外生命の発見は長年にわたる人類の夢であった。その夢は思わぬ形で叶うこととなった。否、正確には80年前、既にその夢は叶っていたのだ。しかもそれは世界中の科学者が夢想だにしなかった深刻な事態を伴って。異星生物との戦争である。何より大きな問題だったのはその戦争を遂行していたのがあのナチスドイツであったという事である。
どう云った経緯でドイツは火星にまで来て戦争を行っていたのか。その目的は?何を目指して火星人と戦っていたのか?事態は深刻だった。なぜなら、そもそもこの戦争自体が既に終わっているのか、それとも未だ継続中であるものなのか、そんな基本的なことすら、何も分かっていなかったのだ。

回収されたフィルムを解析した結果、ドイツ軍が初めて火星に降り立ったのは1942年の2月であったことが判明した。一緒に発見された日誌には、それがフランス植民地軍との混成部隊であった事も記されていた。
火星に降り立った最初の人型重機は6台だけであったようだが、これがいつ製造されたものであったかまでは確認されていない。映像を見る限りそれは「IV号」である様なので、前年11月にロールアウトした初期製造分であった可能性が非常に高い。
驚いたことに火星に降り立ったこの部隊は、誰一人として宇宙服を着用していなかった。皆、普通に呼吸をし、地球上と同じように活動をしていた。

これが事実であれば、90年前の火星には人間が普通に生活できる環境が整っていた事になる。これは火星に関する定説を覆す重大な発見であった。これらのフィルムには重機以外の兵器も多数収められていた。それらはペーパープランに終わったドイツ軍戦車や、オートジャイロ型の飛行機等、どれも歴史の闇に消えて行った兵器達であった。
また違う時期に撮影されたフィルムには日の丸を付けた航空機が大型空母に着艦する様子まで収められていた。もちろん火星に海など存在しない。その空母は陸上を移動していたのだ。火星表面を滑るように進むその姿は、まるで連合艦隊がそのまま火星に移動してきたかのような光景を現出させていた。

もはやこれらの兵器がどうようなテクノロジーによって作られたものなのかをを想像することすら難しかった。やっとの思いで有人探査機を送り込んだその矢先、そこには常識を遙かに超えた旧世紀の兵器達が90年も前に戦争を行っていたのだ。NASAやアメリカ軍の受けた衝撃は計り知れなかった。

駆動システム

火星から回収された重機の部品は、その素材に至るまで、徹底的に調べられた。と同時に、失われていたロージック社の記録も次第に「発掘」され始めていた。製造台数が5,000台程度だと分かったのも発掘された当時の資料のおかげであった。
一連の調査結果の中で最も興味深かったのは、骨格(フレーム)に使用されている金属に関するものであった。先にも述べた通り、石神製鉄(株)から提供された特殊な鉄鉱石から作られたこの金属は、特徴的な結晶構造を持っていた。全ての結晶がナノレベルで多面体のハニカム構造になっていたのだ。驚異的な強度と軽さはその結晶構造によるものであった。

しかしながら技術者達の関心を集めたのは、この金属の持っているもう1つの特徴の方であった。それは人間の意思をエネルギーに変換すると言うものであった。また、この金属をある液体に浸すと、その効率が飛躍的に増大することも分かってきた。その液体とは、人間の「血液」であった。それは、この金属の持つハニカム構造の中に血液が入り込むことによって、人の意思がロスなく伝達されるようになるためであると考えられた。しかしながら、そもそもどうやって人の意思をエネルギーに変えているのか、その根本的な原理に関しては全く謎のままである。
いずれにせよ、この重機はそこに乗り込んだパイロットの身体から自らの駆動に必要な電力を調達していたことになる。重機の駆動時間が極端に短い原因もそこにあった。
またその操縦が思いのほか簡単であったことも、この金属の特性でうまく説明が付く。パイロットは重機を操縦するとき、ハンドルを通じて自らの意思を電気エネルギーとして送り込んでいたのだ。その際、意思を受取った重機側がそのイメージを正確にトレースしてくれていたのだ。

しかしながら、パイロットがそこに支払う代償は決して少ないものではなかった。回収されたフィルムには、操縦席から降り立ったパイロットがそのまま倒れ込んだり、時には死んでしまうシーンが多く残されていた。近年日本で発見された資料から、「I号」の間接にはモーターではなく繊維状の特殊な物質を使用する予定があった事も判明した。これは陸軍の明石平八郎大佐が大陸で発見した未知の物質を元に理化学研究所で開発がすすめられていた物質で、今で言うところの人工筋肉の様なものであった。
敗戦国の常ではあるが、当時の記録はそのほとんどが意図的に処分または焼却されてしまっており、この人工筋肉なる物が一体どのような物であったのかを現在知ることは出来ない。但し、実際に量産された「T号」の駆動部には全てドイツ製の大型モーターが採用されている事から、この未知なる技術がまだ実験段階の域を出ていないものであったことだけは確かなようである。

量産体制

この重機に限った事ではないが、大戦中に製造されていた各種兵器は、連合国においても、戦争の終結とともにその大部分の発注がキャンセルされている。
ロージック社による生産が1945年4月を持って終了していることは先にも述べたが、これが火星における戦争が終結した為であったのか、それとも単にドイツが(第二次世界大戦に)敗れた為であるのかはもうひとつはっきりしない。ただ、当時のドイツはソ連と連合国による東西からの侵攻によって、まともな生産活動を行える状況でなかった事だけは確かである。

2033年、新たに火星に降り立った調査隊は、一部の「重機」に製造年月が記されているのを発見する。そこには1954年10月の日付が記されていた。
これが調査隊の見間違えでなければ、「重機」の製造は第二次世界大戦が終結した後も継続していた事になる。しかし、それは一体どこで?ロージック社は9年前の1945年には解散している。となればそこから導かれる答えはひとつ、ドイツ以外にも工場が存在していたのだ。

それがロージック社のものであるかは別として、少なくとも、1954年まではどこかしらの工場でこれらの「重機」が量産され続けていたのだ。しかしこの時調査隊はある疑問に直面する。遙か地球で製造した「重機」を火星にまで持ってくるよりも、現地、即ちこの火星上でこれらの兵器を量産した方が遙かに効率的ではなかったのか。
記録を見る限り、当時のドイツ軍は火星上にある程度の橋頭保を築いていたようである。であれば、現地で必要な兵器や装備を量産する方法を考えていたはず。しかし、それは一体どこなのか。全ての答えは遙か彼方、火星の赤い大地に埋もれたままなのである。